現役時代のお節介な爺さんは、定年制廃止を唱えた立場から、あらためて定年制はいつ頃から出来たのか? 文献その他の資料を参考に調べてみた。
※ 爺さんモデルの事例は、第一法規出版の人事制度事例集に掲載の「生涯現役人事制度」をご覧ください。
冒頭から余談になるが、いつの世も下っ端の苦労や悲哀は、日本独特の風土であることにあらためて痛感した。
平安時代に貴族から「下衆(げす)(下司・下種・下主とも)」と呼ばれた下級官人は、その門地(もんち)によって任命される官職や昇進の上限が決まっていたようだ。
いま働き方改革によって叫ばれる個人の能力によって就職したり、昇進したりできる現代から見ると、まことに絶望的な人生を歩まなければならなかったようだ。
「立身出世」という言葉自体が、雲の上のものであり、私たちが味わう苦労や悲哀とはまた別のものがあった。
この制約は本人だけでなく、子孫にまで及んでいたとは、まこと貴族と下級官人の格差苛酷な日常で、歴史や国語の授業を通して、平安時代の出世話や権力闘争は、主に上級貴族たちの話だのかと知って、自国の風土に立ち向かった自分を改めて誉めている。
そこで本題に入るが、役人や庶民、商人(職人)や農民には、江戸時代などでは定年制度はあったのか調べてみた。
結論的には、江戸時代では明確なものは見当たらなかった。
文献では、明治に入って旧日本軍で現役の定年制が設けられた事が初めて登場する。
明治の終わりには海軍工廠(こうしょう)で50歳を定年と規定されている。その後、だんだん広まり、役人(公務員)や民間会社へと採用されるようになったようだ。
定年制は、明治時代(1868年~1912年)の後期に一部の大企業で始まり、1930年代から急速に企業に広まる。
最古の定年制は、1887年に定められた東京砲兵工廠の職工規定で、55才定年制でした。
民間企業では、1902年に定められた日本郵船の社員休職規則で、こちらも55才定年制でした。
長寿化・高齢化社会と共に1994年に制定された65歳までの延長がなされた。
明治時代・大正時代は、男性の平均寿命は43才前後でほとんど変動がない。しかし、戦後直後の1947年で50才、1951年に60才、1971 年に70才、2013年に80才です。
伸びた理由は、乳幼児の死亡率の低下、結核などへの医療の進歩、生活環境の改善、などが考えられる。乳幼児 の死亡率は、現在では3%程度ですが、大正期までは15%程度ありました。
定年制が実際に適用されたのは、大企業の一部職員だけでしたが、それでもそれらの人に対しては文字通り「終身」雇用であったと言えるのかもしれません。
荻原勝氏の著書『定年制の歴史』(日本労働協会、1984年)によれば、当初の定年制は労働者の足止め策と表裏でした。
つまり、定期職工が当時の基本的な雇用形態であり、海軍の場合、45才が採用の上限で、年期が10年で、55才定年ということです。そのため、戦後の1947年 に立法された労働基準法では、使用者による過度の足止め策を禁止する規定が並んでいる。
有期労働契約の上限を1年(当時・14条)とし、賠償予定 (16条)・前借金相殺(17条)・強制貯金(18条)といった手段による足止め策を禁止しています。
それに対して現在では、平均寿命の急伸を背景に、定年制は強制退職の側面が強くなっている。
高年齢者雇用安定法は、1985年に60才定年を努力義務とし、1994年には法改正して 60才定年を義務化する規定を設け、1998年に施行され60才定年となりました。その後、2006年には法改正して65才までの継続雇用を義務化する規定を設けて、2013年より施行されています。
しかし、新生児の死亡を除外したとしても平均寿命は、明治時代の50才から現在の80才まで30才も伸びているのに対し、定年年齢は、55才から65才と10才しか伸びていない。
参考だが、近畿地方の一部などでは古くから、60歳になると村の寄り合いや農村などの共同で行う作業を行う“村つとめ役”を跡取り息子にゆずって、村の運営から離れ隠居する風習が伝統としてあり、その後は氏神様の守る役(霜月祭りの世話など)に回る制度が残っているところもある。これも一種の定年制である。
世代交代と村役からの引退と、そして新しい神社の祭りの役わりとがうまく老若で分担された制度で、企業の定年とは違って単に世代交代だけでなく若い人達を育てる機能がしっかり村で出来ている。お節介な爺さんには、なかなかすばらしいと風習かと感心した。
お節介な爺さん。働く場を失った今だが、働き方改革の議論の中で、定年制廃止論が報じられるとこころがわくわく、何故か現役時代に多くの先生方とこの問題で対峙したことが想い出される。
平成サラリーマン川柳より抜粋
・ほめられて、ご馳走になって、とばされる
・石の上、三年経てば、次の石
・頑張れよ、無理するなよ、休むなよ
定年は、企業や公務に勤める正規雇用者がある一定の年齢に達したら仕事を退職・退官することを定めた年齢のこと。
またそうした仕組みによって雇用関係が終了し、退職・退官すること(定年退職)。
労働者が一定の年齢(定年年齢)に達すると自動的に雇用関係が終了する制度を「定年制」という。
定年が定められる理由としては、加齢に伴うパフォーマンス低下の問題が主な理由のようではあるが、個人の能力や体力は年齢だけで定めるには、双方にとって損失面も大きいと考えられる。
また、定年を考えるうえで置き去り出来ないことがある。
公的年金制度だ。
昭和17(1942)年に労働者年金保険制法(昭和19年厚生年金保険法)が創設、年金制度も社会的環境の変化で様々な改正が行われた。
公的年金制度の歴史は大きく3つの時期に分けることができる。
1.第1期は、昭和36(1961)年の国民皆年金の実現までである。
2.第2期は、経済の順調な発展と共に制度が充実した時期である。
3.第3期は、少子高齢社会への対応で、現在も見直し改革進行中。
企業にとっては、パフォーマンスが低い従業員を自由に解雇したいという誘因を持つが、従業員に取ってみれば、働くことは生活面の要であり、働きたいと望む限り企業は雇用を保証するべきでもある。
しかし、企業にとってはパフォーマンスが低い従業員には早くやめてほしいという願望は払拭できない。
しかし、労使対等などの公平性を論ずる社会的現象が深まり、無制限に雇用が継続されるとした場合、企業運営に特定の意義を持つ従業員などの影響で、経済活動に過度な歪みが生じる要因が次々と現れ、この折衷案として定年のような雇用の出口を設ける必要性が強くなったとも考えられる。
ではなぜ、取締役には定年制が設けられなかったのでしょうか。
この疑問から、爺さんの「生涯現役人制度」をご覧いただき、議論を深めていただけたらと思います。
参考までだが、
定年制の導入状況は国ごと異なる。
日本では官公庁でも企業でも採用されているが、アメリカ合衆国やイギリス、オーストラリアでは一般的ではない。
また同一国内であっても職種や法人によっても異なる。いったん定年になっても、継続雇用や再雇用される場合もある。
世界の法的定年と実態
韓国では法律上の定年が60歳であるものの、1997年末のアジア通貨危機以降から2003年時点で「サオジョン」(45定(年)と同音異義語であると西遊記の沙悟浄をかけた語呂合わせ)、「オリュクト」(56歳まで働くと泥棒の意)と呼ばれている。2023年時点でも韓国統計庁によると「現実の定年」は平均49歳(男性は51.1歳、女性は47.8歳)で、最も長く働いた職場での平均勤続期間は僅か15年である。年金を受け取れている高齢層の割合は50.3%だけであり、更に月平均年金受給額は75万ウォン(約7万5000円)である。
アメリカ合衆国では、40歳以上の労働者に対する年齢を理由とした雇用関係、雇用条件、賃金、配置、役職などのあらゆる就職差別は連邦法によって禁じられている。一部の職種では例外的に認められているものもあるが、その多くは軍人や警察官など政府関係の現場職である。アメリカの民間企業では、年齢を理由とした解雇である定年退職や、年齢を理由とした賃金・役職・配置の降格である再雇用制度などはなく、労働者本人の希望による退職や能力的な理由による解雇でない限り生涯にわたって働き続けることができる。また年齢を基準とする求人差別を防ぐため、就職活動用の履歴書に応募者の年齢や生年月日の記入を求められることはなく、正式に採用が決まるまでは企業側が応募者に年齢や生年月日を尋ねることも法律で禁止されており、その目的も就労資格や税務上の確認に限られる。
中華人民共和国は中国共産党中央政治局には委員の68歳定年制があり、党大会時の年齢が基準となる。現在の中国政界で中国共産党の政治局常務委員でない者が国家の最高幹部になることはまずあり得ないので、実質的に最高指導者の定年制となっている(ただし、後に中国共産党総書記である習近平が68歳を迎えるにあたって引退しておらず、緩和されている)。1997年に定年制が導入される以前は、毛沢東、朱徳、葉剣英など、80代の政治局常務委員の例も珍しくなかった。古代中国において官僚の定年は70歳であったことから、科挙における最初の試験「郷試」では70歳以上の受験者は合格点に達しなくとも合格扱いとし、名誉称号として「挙人」を与えていた。
その他、ブータン国王は2008年に制定された憲法によって、65歳になった時点で退位することとなっている。
国際オリンピック委員会(IOC)の委員には、80歳の定年制がある。
労働条件通知書
企業が定年制を導入するには、定年に関する事項を就業規則に明記し(労働基準法第89条でいう「退職に関する事項」に含まれる)、かつその就業規則を労働者に周知させておかなければならない(労働基準法第106条)。日本の企業の正社員と公務員は、その大部分が定年制を導入している。一方で定年を定めないことも可能である。
職種別に異なる定年年齢を設けることは、特に過酷な業務に従事する労働者を使用する企業において行われる。
高年齢雇用安定法の例外として、「鉱業法第4条に規定する事業における坑内作業の業務」については、60歳未満の定年年齢を定めることが許容される(高年齢者雇用安定法施行規則第4条の2)。職種別定年を採用する場合でも、負担の少ない業務への配置転換や継続雇用の導入などの配慮は行わなければならない。
男女雇用機会均等法の施行以前は男女別に異なる定年年齢を設けている企業も少なくなかった(なかには結婚退職を前提として、女性の定年を男性に比べて極端に低く設定していたケースもあった)が、最高裁判所は1981年の日産自動車事件において明確に男女別定年を否定し、その後の均等法の施行により現在では明文で男女別定年を禁止している。
日本における歴史
第二次世界大戦以前の日本では、1936年に三井合名の筆頭常務理事であった池田成彬が定年を導入。
筆頭常務理事、参与理事は満65歳、常務理事及び理事は60歳を定年とし、三井合名の関係企業である銀行、物産、鉱山、東神倉庫、信託、生命の6社幹部にも同様に適用されることとなった。なお、使用人の定年は満55歳とされた。
戦後、1959年、第2次岸改造内閣によって国民年金法成立し、国民年金が導入された。
1950年に男58歳、女61.5歳であった日本人の平均寿命は、1960年に男65.32歳、女70.19歳、1970年に男69.31歳、女74.66歳、1980年に男73.35歳、女78.76歳と格段に伸びていたが、多くの企業において55歳が定年退職であった。
1968年時点において、公立小学校校長の定年勧奨年齢は都道府県ごとにまちまちであったが、もっとも条件が厳しいとされた山梨県の場合56歳であった。このため山梨県の小中学校長組合では定年勧奨の1年延長を求めてビラ配りなどを行っている。
その後、公務員の定年は後引き揚げられたが、若年定年制及び任期制を導入している自衛隊では、2022年においても前者は30年代、後者が50歳代となっている。
1969年7月1日、女性に30歳定年制を採用していた会社を、解雇された女性パートタイマーが訴えていた裁判で、東京地方裁判所は「女子の若年定年制は男女を不当に差別するもので、公序良俗に反することから無効」という判決を出した。
1986年の高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の改正で、60歳定年が企業への努力義務に、1994年の改正で60歳未満定年制が禁止(1998年に施行)されたことで、60歳が日本の標準的な定年になった。
2000年に企業に対して、65歳までの雇用確保措置を努力義務化された。
2004年に企業に対して、65歳までの雇用確保措置の段階的義務化(2006年施行)、2012年には企業に対して、希望する労働者全員を65歳まで継続雇用することが義務化がされた(2013年施行)。
2012年7月には、定年を40歳にして雇用の流動化を促そうという、日本国政府の提案が発表された。
ただし、これは「何歳でも、その適性に応じて雇用が確保され、健康状態に応じて、70歳を超えても活躍の場が与えられる」ことが前提条件であるが、40歳以上での再就職が極めて困難な現在の日本の社会においてそのような前提条件を成立・実現させる方法については、政府は何の具体案も出していなかった。
そのため、この提案に対しては「転職を支援する制度面の整備が進まなければ安易なリストラの助長に終わる懸念もある」などとする批判が強く、現在の日本の社会では実現の可能性は低いと考えられており、事実2012年末の政権交代で雲散霧消した。
労働力人口減少を背景として、2012年8月29日には、60歳などで定年を迎えた社員のうち、希望者全員の65歳までの継続雇用制度の導入を企業に義務付ける改正高年齢者雇用安定法が成立。2013年4月から施行される。
この年(2012年)の平均寿命は男性が過去最高の79.94歳、女性が86.41歳にまで伸びていた。
この改正案について、当時は企業内の労働者の利益を代表する労働組合が「希望者全員の雇用」を求めたのに対し、経済界は「他の社員の給与を減らすか、若年層の採用を減らすかという選択を迫られかねない」として、反発を強めていた。
定年者の再雇用拡大に伴って、非正規社員の削減を検討している企業は3割に上る。
政権交代後のアベノミクスで少し景気が上向くと、即座に労働供給の壁に突き当たって、売り手市場の人手不足の状態に変化した以降は有効求人倍率は、バブル経済期を上回った。
そのため中小企業だけでなく大企業でも人手不足感が高まって、定年後の再雇用への年齢上限を撤廃する動き強まった。
2017年には社員の「生涯現役」を求めて活躍するシニア社員が新聞に取り上げられるようになるなど、人手不足の企業と働き続けたい労働者の利害の一致により定年年齢を労働者が決めることが見受けられるようなった。
継続雇用制度への移行
高年齢者雇用安定法では、企業が定年を定める場合、60歳を下回る事が出来ないとされている(高年齢者雇用安定法第8条)。年金(厚生年金)の受給年齢が65歳に引き上げられることもあって、会社(使用者)は対応を迫られている。
改正高年齢者雇用安定法(2006年4月1日施行)によると、事業主は65歳までの安定した雇用を確保するために、下記のいずれかの措置を講じなくてはならない(高年齢者雇用安定法第9条)。
なお、それ以前(2000年の改正)は、65歳までの継続した雇用を促す努力義務規定であった。
継続雇用制度の導入
法改正により、2013年4月1日からは継続雇用制度の対象者を労使協定によって限定することはできなくなる。なお2013年3月31日までに労使協定を定めた場合は、2025年3月31日まで経過措置として、対象年齢を順次切り上げ認められる。(定年年齢の65歳への引上げ)
定年制の廃止
東京都労働局の『平成24年度高齢者の継続雇用に関する実態調査』では、高年齢者雇用確保措置については、「継続雇用の導入」を実施している事業所が86.1%と圧倒的に多く、「定年の引き上げ」は9.1%、「定年の定めの廃止」は2.4%となっている。
いずれの措置も実施していない事業所は5.9%であった。
定年退職者を継続雇用することについても就業規則に定めることが必要である。継続雇用とは、現に雇用している高年齢者が希望する時は、当該高年齢者を定年後も引き続いて雇用する制度のことである。法改正により継続雇用の対象者を限定することはできなくなったため、希望者全員を対象とするものにしなければならず、事業主が制度を運用する上で、労働者の意思を十分に確認することが必要である。
定年者の意向
電通が2006年に行った調査では、男性の77%が定年後も組織で働くことを望み(75%は定年前に働いていた企業を希望)、働くことを希望した者のうち、フルタイム希望者が47%、パート・アルバイト希望者が40%となっている。
※調査対象は1947年、1948年生まれ。出典は『2007年団塊世代退職市場攻略に向けた調査レポート「退職後のリアル・ライフ II」』
役職定年
役職定年とは、通常の定年とは別に一定の年齢に達すると役職がつかなくなり、平社員等になる制度のこと。
制度として明記しているのは民間会社の一部にとどまるが、配置転換などを含めた実質的な役職定年は公務員も含めて広く採用されていると考えられる。
例えば地方公務員であれば公社社員等に、中央省庁勤務なら財務省課長などの重要省庁幹部から外郭団体へ天下るなどがある。
社長や取締役について定年制を設ける企業も存在する。この場合、一般社員の定年より高くなるのが普通である。
プロスポーツ選手
野球やサッカーなどプロスポーツの世界では、体力の関係上、40歳定年説が言われることが多い。
具体的に定年が定められているわけではないものの、(現役選手としては)新世代の選手に体力的に敵わず、体力的に現役続行が可能でもチームとして世代交代を推進するなどのために引退せざるを得ないのが通常である。
ただし40歳を超えて現役を続けた選手も少なからずいる。
日本のプロ野球選手
現役最年長記録は山本昌の50歳(2015年引退)、米国MLB選手の現役最年長記録は、サチェル・ペイジの59歳(1965年引退)で、日本のBリーグ選手の現役最年長記録は、折茂武彦の49歳(2020年引退)、米国NBA選手の現役最年長記録はナット・ヒッキーの45歳で1948年に1試合のみ出場、複数試合出場であればケビン・ウィリスの44歳(2007年引退)。
日米ともに2021年現在でも40歳を超えるプロ野球選手及びプロバスケットボール選手もいる。
日本のJリーグ選手の現役最年長記録は三浦知良の54歳(現役自体は下部リーグのJFL、ポルトガルリーグ2部で継続)で、2023年現在も伊東輝悦・小野伸二・遠藤保仁らがそれぞれ40歳を過ぎて現役を続けている。サッカー界における現役最年長公式戦出場記録はイスラエルのイサク・ハイクの73歳。
プロゴルフにおいては、男子は50歳、女子は45歳をそれぞれ過ぎると基本的には「シニア」と呼ばれるカテゴリーにおけるツアーを転戦することになるが、シニアの年齢を過ぎてもシード権獲得など条件を満たせばレギュラーツアーに参戦を続けることが可能である。そのため、シニアと並行してレギュラーにも参戦する選手もいれば、尾崎将司のようにシニアを拒否してレギュラーに拘り続ける選手も存在する。2021年現在、PGAツアー最年長出場記録はジェリー・バーバーの77歳、日本プロゴルフツアー最年長出場記録は青木功の74歳、JLPGAツアーの最年長記録は森口祐子の58歳。
大相撲では、現役力士の定年はないが、大部分の力士は30代になると次第に体力が衰えて番付が下がり、引退を迫られるのが普通で、力士によっては負傷や成績不振などを理由に20代で引退してしまう者も多く、40歳以上で現役を続けられる者はほとんどいない(十両と幕下の待遇差が大きいため、幕下以下でなら現役継続が可能でも十両陥落を機に引退することが多い)。その中でも数少ない例外である旭天鵬勝は、2014年9月13日に現役の幕内力士として40歳の誕生日を迎え、翌年の7月27日まで現役を続けていたが、40歳以上の幕内力士の登場は名寄岩静男以来60年ぶりであり、大相撲が年6場所制になった1958年以降では史上初であった。また、安美錦竜児も2018年10月3日に現役の十両力士として40歳の誕生日を迎え、翌年の7月16日まで現役を続けていた。なお、幕下以下の力士では華吹大作が2021年5月28日に51歳の誕生日を迎え、翌年の1月場所まで現役を続けていた。幕下以下の現役力士としては翔傑喜昭。
引退した大相撲の力士はほとんどが角界を去って別の職業に就く[注釈 10]ことになるが、所定の要件を満たした力士の中で希望する者は、親方や若者頭・世話人として日本相撲協会に残ることができる。その場合の定年(日本相撲協会の表記では「停年」)は65歳であるが、この定年制度が1960年代初期に導入された当時は、親方だけが65歳停年で、行司・呼び出し・床山の停年は60歳と定められていた。しかし、やがて親方以外の役職も徐々に停年が延長され、現在は全て65歳にそろえられている。この他、大相撲では、一ノ矢充(46歳11か月まで現役)などのように、幕下以下で40歳を過ぎてもマネージャー兼業のような形で現役を継続する例もいくつかある(40歳以上まで現役を続けた力士一覧を参照)。また、2014年から親方の65歳以降の継続雇用制度も導入され、希望者は70歳までの継続雇用が認められることになっている。
競馬の騎手には定年制は存在しないが、年齢を重ねて体力が衰えれば騎乗数・勝利数・入着率が低下し、最終的に引退を余儀なくされるのが通常である。2022年4月現在、中央競馬では岡部幸雄の56歳が最年長記録であり、地方競馬では1956年生まれの的場文男が現役の騎手を続けている。
引退した騎手には調教師や調教助手、厩務員など競馬に関係する職業に就く者もいるが、所定の試験あるいは課程を経る必要がある。中央競馬では1989年より調教師の「70歳定年制」が導入された(ただし当時は70歳を超える調教師が多数だったため10年間の経過措置を設け2000年から完全運用)。そのため、過去に内藤繁春が調教師として定年間近の69歳で騎手免許試験を受験して話題になった(ただし試験には合格できなかった)[27]。厩務員の定年は65歳と定められている。地方競馬の調教師、厩務員については、所属場により定年制の有無及びその年齢が異なっている。
将棋界では、順位戦に出場できる実力を維持していれば何歳まで現役を続けてもよいが(将棋界における順位戦の最年長出場記録は加藤一二三の77歳[注釈 12])、順位戦から陥落した者はフリークラスに編入され、この場合は60歳を迎えた年度までに順位戦に復帰できなければ引退となる。また、「フリークラス宣言」として自らフリークラスに転出することもできるが、この場合は65歳を迎えた年度についた対局をすべて消化した時点で引退となる。
囲碁界には定年制は全く存在せず、本人が死去または自ら引退するまで現役棋士の地位を保証される。中でも史上最高齢の囲碁棋士として知られた杉内雅男は、2017年に97歳で死去するまで引退することなく現役の棋士として活躍を続けていた。また、彼の妻で1927年生まれの杉内寿子も現役最高齢の女性棋士として活躍中である。
プログラマーは1980年代まで、35歳を過ぎたプログラマーは過酷な労働条件や次々登場する新しい技術に対応できなくなるという認識があり、「35歳定年説」がよく取り沙汰されていた。現在はそのような風潮は過去のものとなり、経験豊かなプログラマーにも一定の需要がある。40歳、50歳を超えても第一線で活躍するプログラマーも少なくはないが、高齢のプログラマーにはより単価の高い営業やマネジメント部門への転向を勧める企業もある。
公務員だが、特定の国家公務員については法律で定年が明記されている。国会職員については国会職員法第15条の2によって定年が存在する。その他の国家公務員には国家公務員法第81条の2から第81条の6の規定や人事院規則11―8により定年が存在する。地方公務員にもこれに準じた定年が存在する。最高裁判所裁判官と簡易裁判所裁判官 - 70歳(裁判所法第50条)高等裁判所と地方裁判所と家庭裁判所の裁判官 - 65歳検事総長 - 65歳(検察庁法第22条)
その他の公正取引委員会委員長及び公正取引委員会委員は70歳(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律第30条)検査官は65歳(会計検査院法第5条)
自衛官は、勤務の苛酷さなどから定年が50歳代など若めに設定されている。定年制が現在ほど普及していなかった大日本帝国時代でも、帝国陸海軍においては事実上の定年制が存在していた。例えば、陸海軍の大将は65歳、中将は62歳、少将は60歳、大佐は56歳、中佐は54歳、少佐は52歳、大尉は50歳、中尉と少尉は47歳が定年であった。ただし、元帥号を授与された大将は事実上前線に出ることのない名誉職であり、終身制であった(たとえば、元帥号を授与された東郷平八郎は86歳で死去するまで現役の海軍大将であった)。また、実際に大尉を50歳まで務めることはほとんどなく、下級将校の場合は定年前に予備役にされるか昇進するのが普通であった。現在の自衛隊において自衛官は自衛隊法施行令により定年が定められているが、1等陸・海・空の俸給を受ける者においては早期退職募集制度の適用を受ける場合がある。
アナウンサーだが、NHKのアナウンサーは概ね60歳までであるが、エグゼクティブアナウンサーや解説員などの役職(管理職)に就いた場合は「役員定年」として57歳で定年が認められる。その後多くは嘱託契約職員としてNHK本体に残ったり、日本語センターに転籍する形でアナウンス業務をする場合がある。日本のキー局における女性アナウンサーなどでは局アナとしては30歳定年説と言われることがある。フジテレビでは1969年まで女子社員は25歳定年であり、それ以上は臨時職員としての雇用だった。2015年に益田由美が同局女性アナウンサーとして初めて60歳定年を迎えた。
宝塚歌劇団は60歳定年制(導入当初は57歳)であるが、生徒は未婚でなければならないため、定年前であっても結婚した者は歌劇団を引退しなければならない。
議員だが、自由民主党は2000年、野中広務自民党幹事長によって衆議院比例区候補は73歳、参議院は70歳の定年制を設け、任期満了に伴い引退する議員もいたが、特例で公認された議員も多数いるため、制度は形骸化している。これにより原健三郎(当時93歳)、櫻内義雄(当時88歳)両元衆議院議長などが引退に追い込まれた。その際、終身比例名簿1位であった首相経験者の中曽根康弘と宮澤喜一は80歳を超えているものの「例外」とされたが、2003年の衆院選の際に、総裁であった小泉純一郎が定年制を厳格に適用させ、引退させた(中曽根には比例区転出にあたって当時の橋本龍太郎自民党総裁から終身1位を保証された経緯があり、この件について「政治的テロ」だと述べ、小泉を非難した)。ただし、2005年の衆院選では74歳の仲村正治を沖縄選挙区における公明党との選挙区調整のために「特例」として、比例名簿に登載させたことがある。2017年の衆院選では小選挙区の定数削減により、比例近畿ブロックで奥野信亮(当時73歳)、比例九州ブロックで園田博之(当時75歳)[注釈 13]が比例単独1位で比例名簿に登載させたことがある。2019年の参院選では、任期満了時で70歳以上の9人のうちの7人が特例で公認された(カッコ内は任期満了時の年齢:山東昭子(77歳)、柘植芳文(73歳)、山田俊男(72歳)、羽生田俊(71歳)、佐藤信秋(71歳)、衛藤晟一(71歳)、木村義雄(71歳))[29]。2021年の衆院選では、比例近畿ブロックで奥野信亮(当時77歳)、比例九州ブロックで今村雅弘(当時74歳)が比例単独1位で比例名簿に登載させたことがある。
公明党にも定年制があり、「議員在任中に69歳をこえる選挙には公認しない」と規定している。ただし、藤井富雄(引退時81歳)や坂口力(引退時78歳)や池坊保子(引退時70歳)や太田昭宏(引退時76歳)や井上義久(引退時74歳)のように特例として公認される場合もある。
大学の教員は各法人の就業規則等で定年を規定しており、一般的には国立大学法人の教員定年は60歳〜65歳程度が多い。また私立大学を持つ学校法人は65歳〜70歳程度を定年としている。大学教員の場合、学部を卒業後、大学院に進学して博士課程を修了するのが最速でも27歳前後になる。社会に出る時期が学部卒業後に就職する者とは約5年間の差があることから、特に私立大学では社会一般の定年である60歳よりも3〜10年経た年齢を定年とすることが多い。国立大学法人においては定年が60歳〜65歳程度の法人が多いが、国立大学法人で定年となっても、研究上の業績や経験が優れている教員は私立大学に再雇用されることが多いため、定年は70歳頃まで延長となる。ただし、2000年代以降は3〜5年間の任期制教員として雇用する法人が多い。また、定年を迎えて雇用契約が終了しても、待遇は従来より低くなるが週に数コマ程度の授業を担当する非常勤教員として雇用を継続されることも多い。なお、欧米の大学には、特別に優れた業績があると認められた教授に対して生涯にわたり現役教授の地位を保証する終身教授の制度があり、日本にも名城大学のように欧米にならって終身教授の制度を設けている私立大学も一部には存在する。
スポーツ審判員
サッカーの審判員はかつて定年制を採用されていた。現在は定年がないが、能力がなければ出場はできない。かつて国際審判員は45歳(2015年まで)、日本の1級審判員は50歳(2007年まで)であった。
プロ野球審判員の定年は58歳であるが、能力によっては65歳まで可能。
日本のアイスホッケーの審判員の定年は50歳である(年度末の3月31日まで)。
日本プロボクシング審判員の定年は70歳である(2007年より)。
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